最上義康公について

四百余年前、山形城主の最上義光は、関ヶ原合戦の論功で、
五十七万石の大名になりました。
だが、後継者問題で嫡男の修理太夫義康を廃嫡して、江戸城で
徳川家康に仕えていた三男の家親に継がせることが最上家安泰につながると考 え、
また家康も長年仕えていた家親は信頼できる存在であったため
義康の廃嫡を命じるとともに、将来の禍根を絶つために
義康殺害を命じました。
義康は、武勇に優れ、慈愛も深く家臣からも慕われて領主の資質を備えた大器でした。
義光が義康を遠ざける挙動は、家臣にも敏感に伝わり、義光に媚びる家臣の一部は
いろいろ策動を始めました。
江戸から帰った義光は義康に対面も許さず、即刻、高野山に登れと厳命、
義康は断腸の思いで妻との別れも許されず、失意の旅に出ました。
義康主従十余人が山形から六十里越街道を抜け庄内に入った
櫛引町の 一里塚に差しかかった時、義光の命を受けた刺客の一団による
凄ましい銃声がとどろきました。
二発の弾丸が義康の腹部に命中、噴き出す血潮の中、義康は無念の自害を遂げ
全員ここで惨殺されたのです。
時に慶長八年(一六〇三)八月十六日、義康二十九歳、義光五十八歳でした。
義光が直ちに義康の館を捜索したところ、義康の手箱から父との不仲を嘆き、
神仏に父との和解を願った祈願文が見つかりました。
釈明の機会も与えず謀殺した義光はこれを後悔、義康の菩提を弔うため
山形城下の常念寺を菩提寺とし、寺領百石を与えて義康の成仏を祈りました。
当山では「常念寺殿補天錦公大居士」と諡り名して供養しており、
平成十四年に四百回忌に当たり、供養塔を建立しました。