建立の由来
福島県いわき市に、浄土宗檀林のひとつであった専称寺の末寺、
壽蔵寺の良雄舜翁上人が運慶作伝の不動尊を奉じて、
この地に草庵を結んで「不動山明王院」と称したのが
天正十一年(一五八三年)三月のことです。
当時の山形城主・最上義光が上洛中に深く帰依していた、
浄土宗大本山の清浄華院の高弟岌讚専阿上人を山形に招き、
明王院の三世住職とし、慶長四年(一五九九年)春「義光山常念寺」と改称。
寺領陌石(1万坪)を与えて伽藍を改修後、後陽成天皇の宸筆勅額を下賜され、
羽州の触頭の寺格を有しました。
嫡男義康の菩提寺となり、さらに百十石(徳川三代家光代から朱印地)となりましたが、
元和七年(一六111年)の大火で勅額も類焼。
正徳元年(一七一一年)中御門天皇から勅額を下賜されました。
文政二年、明治二十七年の大火に遭い、その後も、雪害など悲惨な歴史を繰り返しましたが、
昭和四十三年に現本堂を再建し、伽藍等境内地を整備しました。
常念寺縁起
この寺は「義光山明王院常念寺」と称し、開山は福島県いわき市にある浄土宗檀林の一つであった
専称寺の末寺である壽蔵寺の末弟、良雄舜翁上人が運慶作と伝えられる不動尊像を奉じて山形を訪れ、
この地に草庵を結んで「不動山明王院」と称したのが天正十一年(一五八三)三月といわれる。
当時の山形城主最上義光は、愛娘の駒姫の受難に遭い、浄土観に心を傾け、上洛中に深く帰依したのが、
京都の浄土宗大本山の一つである清浄華院の高弟で学識高く知行兼備の岌讚専阿上人で、義光の招きで山形に下向し、
不動山明王院の三世住職となる。
慶長四年(一五九九)春、明王院を「義光山明王院常念寺」と改称、寺領百石を与えて伽藍を大改修し、
同年八月、上洛中の義光は後陽成天皇に宸筆勅額の下賜を願い出たところ、
明王院当時の宗風(加持祈祷、邪気払い)が問題視されたので上人が急ぎ上洛して弁明、勅額の下賜が決まった。
この際、勅額院宣書、参内式目之控書、法度書、亀鑑書の下附があり、義光は羽州における浄土宗の触頭とし、次の祝歌を残している。
「みがきおく玉のひかりも吉野山 空もひとつにかほるしらくも」
その後、嫡男、義康の菩提寺としたさい
中野村の内、百十石を寄進(徳川三代家光代から朱印地)した。
このような由緒から江戸時代には羽州に於ける触頭という寺格だったが、元和七年(一六二一)の山形大火で類焼、正徳元年(一七二)中御門天皇から勅額を下賜(現存)された。
その後、文政11年、明治二十七年にも大火に遭い、太平洋戦争後の昭和四十三年、現在の鉄筋コンクリート造りの本堂再建、伽藍等を整備した。